「世界というのは五蘊のことである。五蘊とは、人間の肉体と精神のことである。その世界にいないというのは、肉体も精神もいまだ到らざる世界をいうのである。その機微の急処をつかまえているので、わが転ずる経は一巻や二巻ではなく、つねに百千万億の経巻を転ずるのである。百千万億の経巻といえば、ただ多いこという言葉であるが、それはただ量が多いだけではない。吐く息のひとつさえもこの世界のあらぬことをかくいうのである。だからといって、それは俗なる智慧とか聖なる智慧とかのことでもなく、また俗なる世界か聖なる世界かということでもない。したがって、また、それは、有知・無知の智の測り知るところでもなく、あるいは、有智・無智の知をもって到りうるところでもない。それは、ただ、仏祖の修証、すなわち皮肉骨髄・眼晴・拳頭・鼻孔・挂杖・払子のひらめく束のまに成るのである。(道元:正法眼蔵・看経)
原文「蘊といふは、五蘊なり。いはゆる色・受・想・行・識をいふ。この五蘊に不居なるは、五蘊いまだ到来せざる世界なるがゆゑなり。この関捩子を拈ぜるゆゑに、処転の経、ただ一巻両巻にうらず、常転百千万億の巻は、しばらく多の一端をあぐといへども、多の量のみにあらざるなり。一息出の不居蘊界を百千万億巻の量とせり。しかあれども、有漏無漏智の所測にあらず。有漏無漏法の界にうらず。このゆゑに、有智の知の測量にあらず。有知の智の卜度(ほくたく)にあらず。無智の知の商量にあらず、無知の智の所到にあらず。仏仏祖祖の修証、皮肉骨髄・眼晴拳頭。頂顎鼻孔・挂杖・払子、孛跳造次(ぼつちょうぞうじ)なり。」
有漏無漏:漏は煩悩、俗界と聖界のこと。