「転蔵について」「ある時、趙州観音院の真斉際大師を一人の老婆が訪れてきて、浄財を布施して大蔵経を転ぜんことをお願いした。師は坐禅の牀をくだって、禅堂を一周し、使者にむかっていった。「転蔵はもう終わったよ」使者は老婆のところにいき知らせた。すると老婆は「わたしはかねて一蔵を転じていただくようお願いしておいたのに、どうして和尚さんは半蔵しか転じてくださらぬのか」それでよくわかるように、一蔵を転ずるの半蔵を転ずるというのは、老婆の経の考え方であり、転蔵はもう終わったというのは、趙州の考え方というものである。いったい、大蔵経を転ずる仕方には、趙州が禅牀をめぐってもよい。あるいは、趙州をめぐる趙州があってもよく、禅牀をめぐる禅牀があってもよい。だが、更に云えば禅牀をめぐるだけがそれではなく、禅牀をがめぐるのみがそれではないのである。」(道元:正法眼蔵・看経)

原文「趙州観音院真際大師、因有婆子、施浄財請大師転大蔵経」師下禅牀遶(ぜんしょうめぐる)のみにあらず一帀(そう)向使者云、「転蔵已畢」使者廻挙似婆子。婆子曰、「日比来請転一蔵、如何和尚只転半蔵」あきらかにいりぬ、転一蔵半蔵は、婆子経三巻なり。転蔵已畢は、趙州経一蔵なり。おほよそ転大蔵経のていらくは、禅牀をめぐる趙州あり、禅牀ありて趙州をめぐる。趙州めぐる趙州あり、禅牀めぐる禅牀あり。しかあれども、一切の転蔵は遶禅牀のみにあらず、禅牀遶のみにあらず。」