「弘覚禅師の看経」「ある時一人の僧があって、自室にあって、念経していた。弘覚禅師は、窓をへだてて問うていった。「そなたが念じているのは、一体何の経だ」僧は答えてて言った。僧は答えて云った。「維摩経でございます」、師は云った。「そなたに維摩経のことを問うているのではない。念じているのはどんな経であるのかといっているのだ」かの僧は、それによって悟るところがあったという。禅師がいうのは、どんな経を念ずるか、その念を問うのである。一念の底は深うして、誰もその念をあげて示すことはできない。路にありて死せる蛇にあう。そのあっと思う瞬間にこの問いがなったのである。だが、かの僧は、蛇ではなく人にあったので、とまどうこともなく維摩経だと答えたのである。いったい、看経とは、仏祖をことごとく集めたばねて、その眼晴としての経を看るのである。まさにその時においては、仏祖はたちまちに来たって仏となり、法を説く。あるいは、仏を説き、仏の行為をなす。その看経の時でなくては、仏祖の頭頂を仰ぎ、面目にあうことができない。(道元:正法眼蔵・看経)

原文「雲悟山弘覚大師、因有一僧、在房内念経。大師隔問云、「闍梨念底、是什麼経」僧対曰、「維摩経」師云、「不問儞維摩経。念底是麼経」此の僧従此得入。大師道の念底什麼経は、一条の念底、年代深遠なり、不欲挙似於念なり。路にして派死蛇にあふこのゆゑに什麼経の問著現成せり。人にあふては錯挙せず、このゆゑに維摩経なり。おほよそ看経は、尽仏祖を把拈しあつめて、眼晴として看経するなり。正当恁麼時、たちまちに仏祖作仏し、説法し、説仏し、仏作するなり。此の看経の時節にあらざれば、仏祖の頂顎面目いまだあらざるなり。」