看経の作法6「また、僧が自分で発心して看経することもある。寺院にはもともとすべての人に公開された看経堂というものがある。その堂に置いて看経するのである。。その仕方は、いまの清規のとおりである。薬山の弘道禅師は、高い沙弥に問うていった。「そなたは、看経によって得るところがあるか。それとも、請益(しんえき)によって得るところがあるか」高沙弥はいった。「わたしは、看経によって得るわけでもなく、また請益によって得るわけではありません。師はいった。「おお、そんな人も大いにあろう。だが、看経もせず、請益もしないならば、一体どうして得ないのであろう」高沙弥はいった。「他にはないとは申しません。ただ、わたしはどうも、そうは思えません。仏教のなかには、なるほどうまく当てはまる人もあろう。当てはまらぬ人もあろうが、ともあれ、看経と請益とは、仏教者の家につねになくてはならぬ道具である。(道元:正法眼蔵・看経仁治二年の秋九月十五日雍州⦅京都)宇治県興宝林寺に在りて、衆にしめす。

原文「また僧みづから発心して看経することもあり。寺院もとより公界の看経堂あり。かの堂につきて看経するなり。その儀いま清規のごとし。高祖薬山弘道大師問高沙弥云、「汝従看経得、従請益得」高沙弥云、「不従看経得、亦不従請益得」師云「大有人不看経、不請益、為什麼不得」高沙弥云「不道他無、只是他不肯承当」仏祖の屋裏に承当あり、、不承当りといへども、看経・請益は家常の調度なり。」

請益とは、師に質問して、その教えを受けることをいう。