「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」釈尊がいわれている。「一切衆生には悉く仏性がある。仏の本質は、常住で、変わることがにない」これは偉大な師、釈尊の力強い教えであるとともに、凡ての諸仏及び歴代の諸祖の根本精神である。仏教者はこれを学び来ることすでに二千百九十年、その間、正嫡をかぞうればおおよそ五十代、西のかた天竺において代々伝持すること二十八代、東のかた中国において世々相承すること二十三世、みなよく保ち続けてこんにちにいたる。釈尊がいうところの「一切衆生、悉有仏性」とは、その意味するところはいかに。それは、こんな物ものがどうして来たのだ」といっておられるのである。あるいは、衆生といい、あるいは有情といい、あるいは群生といい、あるいは群類という。悉有というのは、その衆生のことであり、その群有のことである。つまり悉有は仏性であって、その悉有の一つのありようを衆生というのである。まさにその時にいたれば、衆生はその内も外もそのまま仏性の悉有である。それは仏祖の伝える皮肉骨髄のみではない。「汝わが皮肉骨髄を得たり」であるからである。(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「釈迦牟尼仏言、「一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易」これわれらが大師釈尊の獅子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂寧眼晴なり。参学しきたること、すでに二千一百九十年、正嫡わずかに五十代、西天二十八代、代代住持しきたり、東地二十三世、世世住持しきたる。十方の仏祖、ともに住持せり。世尊道の一切衆生、悉有仏性は、その宗旨いかむ。是什麼物恁麼来の道転法輪なり。あるいは、衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。悉有の言は、衆生なり、群有なり。すなはち悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄なるがゆへに。」