それによって判るように、いま仏性に悉有せられる「有」は、有りや無しやの有ではない。悉有は仏のことばであり、仏の舌であるり、したがってまた仏祖の眼目であり、仏者の鼻孔である。それはけっして始有(はじめて現れる存在)でもなく、本有(本来の存在)でもなく、また妙有(不可思議な存在)どというものでもない。ましてや、縁有(因縁による存在)や妄有(虚妄による存在)であろう筈ずはない。心(内なる心)・境(外なる対象)・性(事物の本質として替わらない)・相(性のあらわれとしてのすがた・はたらき)などに関わるものでもない。だからして、衆生悉有の身心と世界とは、すべて業の力をもって変えうるものでもでもなく、妄情を縁としてもたらさけれるものでもなく、あるいは自然にしてかくあるものでもなく、神通の力によって証得せられるものでもない。もしも衆生の悉有なる仏性が、業によるもの、縁によるもの、自然にしてかくあるものとするならば、もろもろの聖者のさとりも、もろもろの仏の智慧も、あろいはもろもろの祖の眼目も、また業や縁や自然にしてしかるものであろう。だがそうではないのである。すべてこの世界にはまったく外より来るものではない。ずばりといえば、別に第二の人があるわけではない。ただ「直ちに根源を切断することをしらず、あれこれと妄想を逞しうして休む」の時がないのである。「徧界かって蔵さず」という妄情によってなる存在などあろう筈もないのである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「しるべし、いま仏性に悉有せられる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼睛なり、衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有にあらず、いはんや縁有・妄有ならんや。心・境・性・相等にかかはれず。しかあればすなはち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法尓にあらず、神通修証にあらず。衆生の悉有、それ業増上および縁起法尓等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提、仏祖の眼睛も、業増上力および縁起法尓なるべし。しかあらざるなり。尽界はすべて客塵なし、直下さらに代二人あらず、直截根源人未識、忙忙業識幾時休なるがゆへに。妄縁起の有にあらず、徧界不曾蔵のゆへに。」