だが、「徧界かって蔵さず」というのは、かならずしも「一切世界はわが有」ということではない。それは外道のまちがった所見である。だからといって、また本有の有ではない。それは古今にわたっての存在であるからである。また、始めて起これる有でもない。「一塵をも受けず」であるからである。また、突如として出現する有でもない。それは凡人も聖者もともにおなじく有するがゆえである。あるいは、始めのない有でもない。だから「こんな物がどうして来たのだ」という。あるいは、あるときはじめて存する有でもない。だから「平常心これ道」というのである。つまるところ悉有というのは、快き便の捉えどころがないようなものであって、そのように会得すれば、悉有は気持ちよく進退を通りぬけて脱落してゆくものである。(道元:正法眼蔵・生死)
原文「徧界不曾蔵といふは、かならずしも満界是有といふにあせざるなり。徧界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず、亘古亘今(こうここうにん)のゆへに。始起の有尓あらず不受一塵のゆへに。倏々の有にあらず、合取のゆへに。無始有の有にうらず、是什麼物恁麼来(いんもぶつもらい)のゆへに。始起有の有にあらず、平常心是道のゆへに。まさにしるべし。悉有中に衆生快便難逢にり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落(とうたいだつらく)なり。」
徧界不曾蔵:一切の諸法はいささかもその秘密を隠し蔵することなく、その実相をそのまま露呈している4というほどの意味。
倏々:たちまちの意