「仏性の見解に対する批判」「その仏性ということばを、学者の中には、先尼外道のいう「我」のように思い誤っているものがすくなくない。それは、然るべき人にあわず、自己にもあわず、師にも学ばないからである。ただいたずらに、わが内に風のそよぎ火のもゆるようにゆれ動く心識をもって、それが覚知のはたらきだと思っているのである。いったい、仏性に覚知のはたらきがあるなどと、誰がいったのであろうか。。なるほど、諸仏のことを覚者といい知者とはいうけれども仏性はけっして覚知でも覚了でもない。ましてや、諸仏を覚者・知者というときの覚と知とは、なんじらが云々する誤れる考えをいうのではない。風・火の二大のうごきを覚知するのではない。ただ、一箇両箇の仏の面目、祖の面目を覚知とするのである。(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「仏性の言をききて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆへなり。いたずらに風火の動著する心意識を、仏性の覚知覚了とおもへり。たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云の邪解を覚知とせず、風火の動静を覚知とするにあらず。ただ一両の仏面祖面、これ覚知り。」

風火:存在を構成するようぞとして地・水・火・風のうち、心意識のうごきは、風大・火代にうごきによておこるものとするのである。