仏性の義とは「仏いはく、「仏性の義を知らんと欲すれば、当に時節の因縁を観ずべし。時節もし至らば、仏性現前す」いま仏性の義を知りたいと思うならば、それはただ知るのみのことではない。また行じようと思うならばであり、証ししようとするならばであり、あるいは、説こうとするならばであり、忘れようとするならばである。その説も、行も、証も、忘も、あるいは錯うも、錯わざるも、すべては時の関係である。その時の関係を観察するには、時の関係をもって観ずるのである。払子・拄杖などをもって観ずるのである。けっして有漏智・無漏智、もしくは本覚・始覚・正覚等の智をもってしては観察しがたいのである。当に観ずべしというは、観るか観られるかにかかわらず、また正しく観るか誤って観るかなどということでもなく、まさに当に観ずるのである。当に観ずるのであるから、自己が観るのでもなく、他が観るのでもない。時の関係そのままにして、時の関係を超絶するのである。仏性そのままにして、仏性を脱却するのである。仏は仏そのままに、性は性そのままに観ずるのである。(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「仏言、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」いま仏性義をしらんとおもはばといふは、だ知のみにあらず。行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかむとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり。かの節・行・証・忘・錯・不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり。払子・拄杖等をもて相観するなり。さらに有漏智・無漏智をもっ、本覚・始覚、無覚・正覚等の智もちをゐるには観ぜられざるなり。当観といふは、能観・所観にかかはれず、正観・邪観等に準ずべきにあらず。これ当観なり。当観なるがゆへに不自観なり。不他観なり。時節因縁にいなり。超越因縁なり、仏性にいなり、脱体仏性なり。仏仏ないなり、性性にいなり」