「仏性の義2」時節もし至ればという。その句を、昔の人も今の人も、往々にして、いつか仏性が現れる時があるだろうから、その時を待つのだと思っている。このように修行してゆけば、自然に仏性の現れる時期もあるだろう。時節が来なければ、いくら師を訪うて法を問おうとも、分別して思いめぐらしても、なかなか現れてくるものではあるまいと、そのように考えて、なすこともなく俗塵に沈み、むなしく阿呆な面をさらしている。そんな徒輩はおそらく自然外道の仲間なのだろう。いまいうところの「仏性の義を知らんと欲せば」とは、いいかえれば、また、「まさに仏性の義を知るべし」ということである。また「当に時節の因縁を観ずべし」というは、「まさに時節の因縁を知るべし」ということである。いわゆる仏性を知ろうと思うならば、時節の因縁がそれであると知らねばならない。時節もし至ればというのは、すでに時節がいたっておるのだ、なんの躊躇(ため)ろうことあらんやというのである。疑うなら疑ってみるがよい。仏性はいつか我に還って来ているのである。まさに知るがよい。時節もし至らばとは、寸分の時も空しく過ごしてはならぬということであり、もし至らばとは、すでに至るというに同じである。もしも時いたらばと待つならば、仏性はついに至らぬであろう。かくして、時すでに至れりとあらば、それこそ仏性の現れである。あるいは、その理(ことわり)もおのずから明らかなのである。およそ、時の至らぬ時というものはなく、仏性の現前せざる仏性というものはないのである。」(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行してゆくところに、自然(じねん)に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、弁道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼(いんも)見取して、いたずらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらく天然外道の流類なり。いはゆる欲知仏性義は、たとへば当知仏性義といふなり。当観時節因縁といふは、当知時節因縁といふなり。いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。時節若至といふは、すでに時節いたれり。なにの疑著すべきところかあらんとなり。疑著時節さもあらばあれむ、還我仏性来なり。しるべし、時節若至は、十二時中不空過なり。若至(にゃくし)は既至(きし)といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰なり。おほよそ、時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。」
雲漢:慢心あるいは痴心のやから。天然外道:一切ノ存在は因によりて生起することを認めず、自然にしてかくあるものと成すが故になんの人力の加わるところなしという見解。