「仏性の義3」「第十祖馬鳴尊者は、第十三祖のために、仏性海のことわりを説いていった。「山河大地は、みな依りて建立し、三昧・六通はこれによって発現す」とするならば、山河・大地はすべて仏性の海である。みな依りて建立すというのは、いま現に建立せられて、山河・大地としてあるということである。すでにみな依りて建立とある。さすれば、仏性海のすがたはかかるものと知られるのである。それはけっして、内の、外の、中間という問題ではない。そうだとすれば、山河を見るは、そのまま仏性を見ることでであり、仏性を見るというは、驢馬の腮(えら)を見、馬の嘴を見ることである。みな依るというは、全てが依るであり、また全てに依るであると、会得し、また会得せぬのである。また、三昧・六通はここによりて発現すという。しるがよい。もろもろの三昧の発りくるも、みにな仏性によるのであり、六神通のにるもならぬも、ともに仏性によるのである。ここ六神通というは、ただ小乗教においていう六つの神通のみではない。六というのは、前後さまざまなるを六神通の成就というのである。。だからとて、六神通とは、きそい茂る百草をすべて、明々たる仏祖のこころであるといった工合に考えてはならぬ。六神通にこだわり滞るのもまた、仏性の海にそそぐ流れを阻害することとなるのである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「第十二祖馬鳴尊者、十三祖のために仏性海とくにしはく、「山河大地、皆依建立、三昧六通、由玆発現」しかあればこの山河大地、みな仏性海なり。皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり。すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし、さらに内外中間にかかはるべきにあらず。恁麼ならば、山河をみるは仏性をみるなり。仏性を見るは驢腮馬嘴をみるにり。皆依は全依なり。依全なりと、会取し不会取するなり。三昧六通。由玆不由玆、ともに皆依仏性なり。六神通はただ阿笈摩教にいふ六神通にあらず。六としーいふは、前三三後三三を六神通波羅蜜といふ。しかあれば、六神通は明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。六神通に滞累せしむといへども、仏性海の朝宗に罜礙するものなり。」
六通:六神通である。定・慧等の力によってうる六種の自在なる力ををいう。神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通という。阿笈摩教:小乗教、神通波羅蜜:神通の成就、完成。