四祖と五祖の問答「しかるに、五祖は「これは仏性であります」といた。そのいう意味は、「これ」は仏性であるというのである。「なに」のゆえに仏であるかを答えているのである。そこでは、「これ」はなにの姓かだけでは究めつくせない。「これ」がすでに「これでない」ときに仏性なのである。だからして「これ」は「なに」である、仏であるといってもそれはすでに「これ」を脱れ落ち、突き抜けているが、それでもやはり姓である。その姓は周である。だがしかし、彼は「これ」を父に受けたのでもない。祖先に受けたのでもない。母に似ているからでもない。比していうべきものはないのである。四祖は「汝に仏性はなし」といった。そのことばは、汝が誰であろうと、それは汝に任せておくが、仏性はにいのだよというのである。それは、いったい、いまいかなる時なれば、「仏性なし」というのであるか、とくと考究してみなければならぬ。仏頭をゆびさして仏性なしとするか、仏心をもって無仏性となすか。融通無碍なるを塞いではならぬ。手さぐりで探しまわってはならぬ。無仏性とは、一時の三昧の境地であると学こともある。さらには、仏性が実を結んで仏と成るとき無仏性であるか、それとも仏性花ひらいて発心するのとき無仏性なるかと、問うてみるもよく、また説いてみるもい。法堂の柱にむかって問うてみるもよく、問われてみるもよく、あるいは仏性をして問わしめるもよい。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「五祖いはく「是仏性」。いはくの宗旨は、是は仏性なりとなり。何のゆへにぶつとなるなり。是は何姓のみに究取しきたらんや。是すでに不是のとき仏性なり。しかあればすなはち、是は何なり、仏なりといへども、脱落しきたり、透脱しきたるに、かならす姓なり。その姓すなはち周なり。しかあれども、父にうけず、祖にうけず、母氏に相似ならず、傍観に斎肩ならんや。四祖いはく、「汝無仏性」いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか。七通を逼塞することなかれ、八達を模索することなかれ。無仏性は一時の三昧なりと修習することもあり。仏性成仏のとき無仏性なるか、仏性発心のとき無仏性なるかと問取すべし、道取すべし。露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし。仏性をしても問取せいむべし。」