四祖と五祖の問答「ともあれ、かくてこの、「無仏性」なることばは、、四祖の室内から流れいでて、いつまでも聞こえている。黄梅山でもきこえ、趙州にも流れいたり、潙山にも轟きわたっている。この「無仏性」の語については、かならずよく工夫してみるがよく、思いなやんではならない。それを追究するには、「なに」という目当てがあり、「汝」という時節があり、「これ」という機縁があり、また周氏という氏姓もある。まっしぐらに趣き向かうぺきである。そこで五祖は答えて「仏性は空でありますから、また無といいます」といった。明覚にいえば、空は無ではない。仏性の空なることをいうに、半斤だ、八両だと、あれこれといわずして、ただ無と表現するのである。空だから空といわず、無だから無というのではなく、仏性の空なるがゆえに無というのである。つまり、無などというのは空をあらわす目印しであり、空というは無なることを表現する目やすである。そのいうところの空は、色即是空の空ではない。色即是空というのは色(物象)を強いて空となすのでもなく、また空を分析して色をつくり出すのでもない。空だから空であるという空である。空だから空を空というのは、いうなれば、空のなかの一片の石である。だからして、仏性は無といい、仏性は空といい、また仏性は有といって、四祖と五祖とが問いかつ答えているのである。(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「しかあればすなはち、無仏性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり、黄梅に見聞し、趙州に流通し、大潙に挙揚す。無仏性の道、かならず精進すべし、趑趄することなかれ。無仏性たどりぬべしといゑども、何なる標準あり、汝なる時節あり、是なる投機あり、周なる同姓あり、直趣なり。五祖いはく、「仏性空故、所以言無」。あきらかに道取す。空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤といはず、八両といはず、無と言取するなり。空なるゆへにに空といはず、無なるゆへに無といはず、仏性空なるゆへに無といふ。しかあれば、無の片片は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。いはゆるの空は色即是空の空にあらず、色即是空といふは、色を強為して空とするにあらす、空をわかちて色を作家せるにあらず、空是空の空なるべし。空是空の空といふは、空裏一片石なり。しかあればすなはち、仏性無と仏性空と仏性有と、四祖・五祖問取道取。」