「衆生無仏性とは」「中国の第六祖曹谿山大鑑禅師が、そのむかしはじめて黄梅山に諮ったとき、五祖は問うていった。「汝はどこより来たのだ」彼はいった。「嶺南人でごさいます」五祖はいった。「来て何を求めんとするのか」彼はいった。「ただ仏となることを求めるのでございます」五祖はいった。「嶺南人は無仏性である。どうして仏となれようぞ」この「嶺南人は無仏性」というのは、嶺南人に仏性がないというのでもなく、嶺南人は仏性があるというのでもない。ただ「嶺南人は無仏性」というのである。「どうして仏となれようぞ」というのは、どうして仏になろうとするのかというのである。いったい、仏性の道理は、これを明確につかんだ先達はすくない。もろもろの小乗の徒輩や、経師や論師の知りうるところではない。ただ仏祖の流れを汲むむもののみがそれを伝え来っておる。仏性というものは、成仏以前に身に具わっているものではなく、仏となってはじめて具わる。仏性はかならず成仏にともなう。その道理をよく学びよく究めるがよい。二十年三十年もかけて工夫しかつ学がよい。修行の途中にあるものが知りうるところではない。いま衆生に仏性ありといい、また衆生に仏性なしというは、この道理によるのであり、それは成仏以来はじめて具足するのだと学のが正しいのである。そのように学ばないのは仏法ではあるまい。でなかったならば、仏法はとうてい今日に到りえなかったのであろう。もしこの道理を知らなかったならば、成仏もわかるまい、聞くことも見ることもないのである。」(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「震旦第六祖曹谿山大鑑禅師、そのかみ黄梅山に参ぜしはじめ、五祖いはく「なんじいづれのところよりきたれる」六祖いはく「嶺南人なり」こ゜゛そいはく、「きたりてなにごとをかもとむる」六祖いはく、「作仏をもとむ」五祖いはく、「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」この嶺南人無仏性といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、嶺南人無仏性となり。いかにしてか作仏せんといふは、いかなる作仏をか期するといふなり。おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および経論師のしるべきにあらず、仏祖の児孫のみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足なり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。十聖三賢のあきらむるところにあらず。衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。成仏以来に具足する法なりと参学する、正的なり。かくのごとく学せざるは、仏法にあらざるべし。かくのごとく学せずば、仏法あえて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。」