無相三昧について「すると愚かな者はいうであろう。その時尊者はかりに化身をもって円月の相を現じたのであろうと。そう思うのは仏道を相承しないやからどもの間違った考えである。何処に、また何時、尊者が自身ならぬ身を現じたというか。まさに知るがよい。その時尊者はただ高座に坐しておったのみである。その身のありようは誰もが坐っているとおなじであった。その寸型がそのまま円き月のすがたを現じていたのである。その姿は四角でも円でもなく、有でも無でもなく、陰でも顕でもなく、その他のなのものでもなかった。ただそのままの姿であった。それを円月相というは、そこには一体何があったか、どうみても、それは月であった。その姿は、まず我慢を除いたものであるから、もはや龍樹ではなくて諸仏の実体である。それでもって諸仏の実体を現じているのだから、それがそのままそれである。だから、仏の姿がどうということではない。また、仏性が満月を思わせるような虚明なものだからといって、それで円月相を持ち出したわけでもない。ましてや、そのはたらきは声色でもなく、その姿は肉身でもない。あるいは、いずれの蘊・如・界に属するものでもない。いや、一応はそれに似ているようであるが、ただそれを以て表現するだけのことである。それはあくまでも諸仏の実体である。それは説法のすがたにほかならない。だから、その形はない。その形がないから、無相三昧にしてはじめてその相を現ずるのである。(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「愚者おもはく、尊者かりに化身を現ずるを円月相といふとおもふは、仏道を相承(そうじょう)せざる儻類(とうるい)の邪念なり。いづれのところのいつれのときか、非身の他現ならん。まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。この身、円月相現なり。身現は方円にあらず、有無にあらず、穏顕にあらず、八万四千蘊(うん)にあらず、ただ身現なり。円月相といふ、這裏是甚(な)麼(に)所在、説細説厵(そ)月なり。この身現は先須我慢なるがゆゑに、龍樹にあらず、諸仏体なり。以表するがゆゑに諸仏体を透脱(とうとつ)す。しかあるがゆゑに仏辺にかかはれず、仏性の満月を形如(ぎょうにょ)する虚明ありとも、円月相を排列するにあらず。いはんや用弁も声色にあらず、身現も色心にあらず、蘊処界(うんじょかい)にあらず。蘊処界に一似なりといへども、以表なり、諸仏体なり。この説法蘊なり、それ無其形(むごぎょう)なり。無其形さらに無相三昧なるとき身現なり。

無相三昧とは、三昧の境地に入って、空三昧を成就すれば、空なるがゆえに一切の差別鳴きことを観ずる境地。