「説法の機微」いまその一座の人々は、その円月相を望見しながら、その目はそれを見ることがなかったという。それは説法の機微というものである。自在身を現じてもそれは声や形ではない。円月の相は陰顕自在であるから、座上にあつて自在身を現じたその時でも、すべての会衆たはただ法を説く声をきくのみにして、師の姿を見ることがなかったのである。ただ、この師の迦那提婆尊者のみは、あきらかに満月相を知り、円月の相を見、その姿を現ずるのを見、諸仏の本性を識りまた諸仏の実体を識った。師の室に入ってその法を受くる者はたくさんあっても、この迦那提婆に比すべきものはあるまい。彼こそ半座の尊者である。会衆の導師として、師の座を分たれる者である。けだし、彼が正法眼蔵を付与せられ、無上の大法を正伝せられたことをかって霊樹鷲山上の会座において、摩訶迦葉が仏の高足としてそれを受けたと同じである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「一衆いま円月相を望見すといへども、目所未見なるは説法蘊の転機なり、現自在身の非声色なり。即陰即現は、輪相の進歩退歩なり。復於座上、現自在身の正当恁麼時は、一切衆会、唯聞法音するなり、不覩師相なるにり。尊者の嫡嗣迦那提婆尊者、あきらかに満月相を識此し、円月相を識此し、身現を識此し、諸仏性を識此し、諸仏体を識此せり。入室瀉瓶のの衆たとひおほしといへども、提婆と齊肩ならざるべし。提婆は半座の尊なり、衆会の導師なり、全座の分座なり。正法眼蔵無上大法を正伝セルコと、霊山摩訶迦葉尊者の座元なりしがごとし。
半座とは、導師として衆生を導く仏である。分座も同じ意。