「身現は仏性なり」「さて迦那提婆はその時、龍樹菩薩のその姿をゆびさして、一座の人肥土に告げていった。「これは尊者が仏性の姿を現じて、われらに示しておられるのである。どうしてそれが判るかといえば、無相三昧はそのすがた満月のごとくにして、仏性は廓然として虚明なものであるからである」と。いまこのれ世界にくまなく流布する仏法を学び来れる古今の人々にして、このすがたをもって仏性なりといったものが誰があろうか。その余の人々はただ、仏性とは目に見、耳に聴き、心に識るなどのものではないと表現するのみである。このすかたが仏性と知らないからいい得ないのだある。祖師が惜しむわけではないが、ただ眼も耳もふさがっているから見聞することができないのである。あるいは、それはそうと識るべき境地にいたらないから了別することができないのである。無相三昧のすがたの満月のごとくなるを望見し礼拝しながらもなお目はそれを見ることができないのである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「迦那提婆尊者、ちなみに龍樹尊者の身現をさして、衆会につげていはく、此是尊者現仏性相、以示我等何以知之、蓋以無相三昧、形如満月、仏性の義、廓然虚明なり。いま天上・人間、大千法界に流布せる仏法を見聞せる前後の皮袋、たれか道取せる。身現相は仏性なりと。大千界にはただ提婆尊者のみ道取せるなり。余者はただ仏性は眼見・耳聞・心識等にあらずとのみ道取するなり。身現は仏性なりとしらざるゆへに道取せざるなり。祖師のおしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり。身識いまだおこたらずして了別することあたはざるなり。無相三昧の形如満月なるを望見し礼拝するに、目未所覩なり。