「廓然虚明は仏性である。」「彼は仏性は廓然として虚明であるという。だから、身をもって仏性を説くにもまた虚明にして廓然である。仏性を説くために現じたすがたは、諸仏の実体を顕わしているのである。いずれの仏もこのすがたを実体としないものがあろうか。けだし、仏の実体はその姿である。姿として現れる仏性があるのである。かって、仏性とは四大である。五蘊であると説いた仏祖の指標も、かえってそのかりそめの姿によるのである。すでに諸仏の本質かたるに体という。この世界のありようがすべてそうなのである。一切のことがそれによるのである。仏の功徳というも、その姿に尽き、その姿に究極する。その数限りない功徳のひとつひとつが、その姿ののりかりそめの現れにほかかならないのである。それなのに、龍樹・提婆の師弟より以後、印度・中国・日本においてたまたま仏教を学ぶ人々があっても、まだ龍樹・提婆のように語った者はない。おおくの経師・論師などが仏祖のことばを解しそこねたのである。宋国においても、むかしからこの物語を描こうとして、身にえがき、心にえがき、空にえがき、壁にえがくこと能わずして、むやみに筆の先によって描き、かの法座のうえに鏡のような一つの輪をえがいて、それが龍樹の現じた円月相であるとした。それ以来すでに数百年の歳月を経て、ずっと人の眼をごまかしつづけているのに、誰一人としてそれを誤りだと指摘するものものもない。万事がそのように間違っているのだから、かなしいことである。もしも龍樹の現じた円月の相が、一つの輪相であったと心得るならば、それこそ本当に画餅一枚というべきもの。人を愚弄するにも程があろうというものである。
原文「仏性之義、廓然虚明なり。しかあれば、身現の説仏法なる、以表諸仏体なり。いづれの一仏二仏か、この以表を仏体むせざらん。仏体は身現なり。身現なる仏性あり。四大五蘊と道取し会取する仏量祖量も、かへりて身現の造次なり。すでに諸仏体といふ、蘊・処・界のかくのごとくなり。一切の功徳、この功徳なり。仏功徳は、身現の究尽し嚢括するなり。一切無量無辺の功徳、この功徳なり。仏功徳は、この身顕の一造次なり。しかあるに、龍樹・提婆師資よりのち、三国の諸方にある前代後代、まさに仏学する人物、いまだ龍樹・提婆のごとく道取せず。いくばくの経師・提婆等か、仏祖の道を蹉過する。大宋国むかとよりこの因縁を画せんとするに、身に画し、心に画し、空に画し、壁に画することあたはず、てたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡なる一輪相を図して、いま龍樹の身現円月相とせり。すでに数百歳の霜華も開落して、人眼の金屑なさんとすれども、あやまるといふ人なし。あはれむべし。万事蹉跎たることかくのごときなる。もし身現円月相は一輪相なりと会取せず、真箇の画餅一枚なり。弄他せん。笑也笑殺人なるべし。」