「円月相は満月の如し」悲しいかな、大宋国の在家も出家も誰ひとりとして龍樹のことばを解せず、提婆のことばに通ずる者もなかった。ましてやかの尊者の姿に身をみもって迫るものはなかった。円月はくらく、満月は欠けていたのである。それも古を学ぶことを疎かにし、古を慕う心のいたらぬがためである。先人も後輩も、せっかく真の姿に遇って、画餅を味わうの愚をおかしてはなるまい。しるがよい。かの円月の相を現じたるを描こうとするならば、その法座にその姿が現われなければならない。眉を揚げ目をまたたく端正な姿がそこになくてはならない。正法眼蔵そのもののすがたが、そこに高々として坐しているのではなくてはならない。あるいは、にっこりと微笑する顔がそこになくてはならない。けだし、その時こそ、仏が成り祖が成るの時だからである。その画がそのまま月の姿でなかったならば、それはいまだ到らす、説法もせず、声色もなく、なんの用もなさぬのである。もしその姿を描こうとならば、円月相をえがくがよい。円月相を描けば、円月の姿が描かれるであろう。その姿が円月相であるから、円月相をえがけば満月の相がえがかれ、満月の姿が現ずであろう。しかるに、その姿を描かず、円月を描かず、満月の相を描かず、したがって、諸仏の実体を現すことをえず、説法もせず、ただいたずらに画餅一枚をえがく。それがなんの用をなそう。いそぎ見たからとて、誰も飢えを充たすことはできない。なるほど月はまるい、まるきは仏の姿である。その円きをまなぶに一枚の銭のように思ってはならない。一枚の餅に似ているとしてはならない。その姿は円月の姿である。「その形満月のごとし」である。一枚の銭、一枚の餅は、その円きは学ぶのである。」(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「「かなしむべし、大宋一国の在家出家、いづれの一箇も龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道を通ぜずみざること。いはんや身現に親切ならんや。円月にくらし。満月を虧闕せり。これ稽古のおろそかなり。慕古いたらざるなり。古仏新仏、さらに真箇の身現にあふて、画餅を賞翫することなかれ。しるべし、身現円月相の相を画せんには、法座飢えに身現相あるべし。揚眉瞬目それ端直なるべし。皮肉骨髄正法眼蔵、かならず兀坐すべきなり。破顔微笑つたはるべし、作仏作祖なるがゆへに。この画いまだ月相ならざるには、形如なし、説法せず、声色なし、用弁なきなり。もし身現をもとめば、円月相を図すべし。円月相を図せば、円月相を図すべし。身現円月相なるがゆへに。円月相を画せんとき、満月相を図すべし、満月相を現ずべし。しかあるを、身現を画せず、円月を画せず。満月相を画せず。諸仏体を図せず、以表を体せず、説法を図せず、いたずらに画餅一枚を図す。用作什麼(ようささも)。これを急著眼看(きゅうじゃくげんかん)せん、たれか直至如今飽不飢ならん。月は円形なり、円身現なり。円を学するに、一枚銭のごとく学することなかれ、一枚餅に相似することなかれ。身相円月身なり。一枚銭に相似することなかれ。身相円月身なり、形如満月形なり。一枚銭・一枚餅は円に学習すべし。」