「おそらくは、それを描くことはできないものであろう。法はすべて描かないのかよく、描くならば簡明に描くがよい。だから、円月相を身に現じた姿などは、古来から描いたものはないのである。およそ仏性とは、いまの心のはたらきであろうと思う考えが脱けないから有仏性というも、無仏性というも、いずれも理解する手がかりがないのであろう。また、それをどう表現してみようぞと学ぶものも稀である。その怠りが仏道の衰えであると知るがよい。諸方の堂頭のなかには、一生に一度もまったく仏性ということばを口にしたことのない者すらもある。ある者はいう、「教えを聴こうとする者は仏性を談ずる。参禅の雲水たちは口にすべきではない」と。そんな輩はまことは畜生である。なんという悪魔の徒党が、わが仏・如来の道にまじって、これを汚そうとするのであるか。そんな聴教というものが仏教にあろうか。そんな参禅というものが仏教にあろうぞ。そんな聴教そんな参禅は、いまだかって仏道にはないとしるがよいのである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「また,画することうべからざらん法は、すべて画せざるべし、画すべくは端直に画すべし。しかあるに、身現の円月相なる、かって画せるなきなり。おほよそ仏法は、いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて、有仏性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疏怠は廃するによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道取を一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ。「聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず」かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり。なにといふ悪儻の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教・参禅といふこと、仏道にはなしてしるべし。」