大円禅師の一切衆生無仏性「大潙山の大円禅師は、あるとき、衆に示していった。「一切衆生無仏性」それを聞く人々のなかには、聞いてよろこぶすぐれた機根の人もあろうまた驚いてわが耳を疑うものもあろう.釈尊の説いたことばは、「一切衆生悉有仏性」である。大潙の語るところは「一切衆生無仏性」である。有と無のことばの道理ははるかにことなる。そのことばの当否を疑うも尤なことである。だが「一切衆生無仏性」の表現こそもっとも勝れている。斉安国師の「有仏性」の句は、古仏のそれとともに双手をなしているようであるが、それはいわば、一本の杖を二人で舁(かつ)いでいるようなもの。いまの大潙はそうではない。一本の杖が二人を呑んでいるともいえよう。さらにいえば、斉安国師は馬祖の直弟子、大潙は馬祖の孫弟子である。だがしかし、孫弟子は師の道において老大、直弟子は師の道においてむしろ年少である。いま大潙のいう趣きは、一切衆生無仏性をもって理のきわまるところとなす。それは、けっして、いい加減にして桁をはずれたことばではない。仏教の中の経典も、そのように受け取っているのである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「大潙山の大円禅師、あるとき衆にしめしていはく。「一切衆生無仏性」これをききく人天のなかに、よろこぶ大機あり、驚疑のたぐひなきにあらず。釈尊説道は、一切衆生悉有仏性なり。大潙の説道説道は、一切衆生無仏性なり。有無の言理はるかにことなるべし。道得の当否うたがひぬべし。しかあれども、一切衆生無仏性のみ仏道の長なり。塩官有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一条拄杖両人舁なるべし。いま大潙はしかあらず、一条拄杖呑両人なるべし。いはんや国師は馬祖の子なり、大潙は馬祖の孫なり。しかあれども、法孫は師翁の道に老大なり、法子は師父の道に年少なり。いま大潙道の理致は、一切衆生無仏性を理致とせり。いまだ曠然縄墨外といはず、自家屋裏の経典、かくのごとくの受持あり。」