大円禅師の一切衆生無仏性「さらに思いめぐらしてみるがよい。いったい、どうして一切衆生がそのま仏性であろうか、あるいは仏性をもっていようか。もし仏性をもっているならば、それは魔の徒党である。魔の子一匹をもたらして、それを一切衆生に重ねるようなものである。仏性は仏性であり、衆生は衆生である。衆生がもともと仏性を具えているわけではない。たとえ見に具えようと思っても、仏性があたらしく何処からか来るわけではない。張さんが酒を飲んで李さんが酔うようなものではない。だが、もしおのずからにして仏性があるのだったら、それはけっして衆生ではない。すでに衆生であるならば、つまり仏性ではない。それ故に百丈はいった。「衆生に仏性ありと説くも、また仏法僧を謗ずるなり。衆生に仏性なしと説くも、また仏法僧を謗ずるなり」とするならば、有仏性といい、無仏性というは、ともに仏法僧を謗ずることとなる。謗ずることとなっても、やはり言わないわけにはゆかない。ではかりに大潙と百丈に問おう。まず百丈に聞こう。謗のそしりは当たらないではない。だが、それで仏法は説きえたというのかどうか。もし説きえたとするならば、その言葉が邪魔になる。そして、聞く者にもまたおなじではないか。つぎに大潙にむかっていいたい。たとい一切衆生無仏性とはいいえても、一切仏法無衆生とはいいえまい。また一切仏性無仏性とはいうまい。ましてや、一切諸仏無仏性とは夢にもいまだ見ざるところであろう。試みにいってみるならば拝見したいものである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「さらに模索すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。もし仏性あるは、これ魔儻なるべし。魔子一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす。仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず、たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。張公喫酒李公酔といふことなかれ。もしおのずから仏性あらんは、さらに衆生にあらず。衆生あらんは、つゐに仏性にあらず。このゆへに百丈いはく、「説衆生有仏性、亦謗仏法僧。説衆生無仏性,亦謗仏法僧」しかあればすなはち、有仏性とひ、無仏性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。且問儞大潙・百丈、しばらくきくべし。謗はすなはちなきにあらず、仏性は説得すやいまだしや。たとひ説得せば、説著を罜礙せん。説著あらば聞著と同参なるべし。また大潙にむかひていふべし。一切衆生無仏性はたとひ道得すといふとも、一切仏性無衆生といはず、一切仏性無仏性といはず、いはんや一切諸仏無仏性きは夢也未見在(むやみけんざい)なり。試拳看。」