「定と慧について南泉と黄檗の問答」「黄檗が南泉の茶室にあって坐っていた。南泉が黄檗に問うていった。「定と慧をひとしく学すれば、あきらかに仏性を見ることをうるという。その理はいかに」黄檗がいった。「二六時中、なにものにも依らずして、はじめて得ることができるのです」南泉がいった。「それは誰ぞ長老の所見ではあるまいなあ」黄檗はいった。「いえ、けっして」南泉がいった。「では、粥の代のほうはしばらくよいとして、わらじ銭はいったいどいつに返させたらよいかなあ」そこで黄檗は沈黙した。いうところの「定・慧をひとしく学ぶ」とは、定の学が慧の学をさたげない時、定・慧をひとしく学びえて、明らかに仏性を見るにいたるというのではない。明らかに仏性を見るところに定・慧がひとしく学ばれることとなる。その理はいかにというのである。たとえば、明らかに仏性みるのは誰のすることだといってもおなじであろう。あるいは。、「仏性ひとしく学すれば明らかに仏性を見る。この理いかに」といってもよいところである。(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「黄檗在南泉茶堂内坐。南泉問黄檗、「定慧等学、明見仏性、此の理如何」黄檗云「十二時中不依倚一物始得」南泉云「莫便是長老見処麼」黄檗曰「不敢」南泉云「漿水銭且致、草畦教什麼人還」黄檗便休。いはゆる定慧学の宗旨は、定学の慧学ほをさへざれば、等学するところに明見仏性のあるにはあらず。明見仏性のところに、定慧等学の学あるなり。此理如何と道取するなり。たとへば、明見仏性はたれが所作なるぞと道取せんもおなじかるべし。仏性等学、明見仏性、此理如何と道取せんも道得なり。」