黄檗は答えて、二六時中、一物に依倚(えい)せず」といった。十二時の時々は十二時のなかにあるけれども、なにものにも依らない。一物に依倚せずである。それが十二時の時々であるから、明らかに仏性を見るのである。いったい、その十二時というのは、いずれの時が到来したのか、また、いずれの国土でのことであるか、そのいう十二時とは、人間世界の十二時なのか。それとも他のどこかに十二時があるのか。白銀の世界の十二時がしばらくこの世界に来たものでもあろうか。たといこの世界のことであれ、他の世界のことであれ、ともかく依倚せずである。すでに十二時中の時々であるから、なにものにも依らないのであろう。そこで南泉が「誰ぞ長老の所見ではあるまいな」といった。それは、これを自分の所見とはよもやいうまいなあ、というほどの言葉である。そなたの所見かときかれても、それを自分のものですと頷いてはならない。自分の考え方にびったりだからとて、それは黄檗のものではない。黄檗の所見はかならずしも自己の所見ではない。長老たちの見るところはどこまでも露わなるものだからである。」

原文「黄檗いはく、十二時中不依倚一物といふ宗旨は、十二時中たとひ十二時中に処在せりともふ不依倚なり。不依倚一物、これ十二時中なるがゆへに仏性明見なり。この十二時中、いづの時節到来なりとかせん。いづれの国土となりとかせん。いまいふ十二時は、人間の十二時なるべきか、他那裏に十二時のあるか、白銀世界の十二時のしばらくきたれるか。たとひ此土なりとも、たとひ他界なりとも不依倚なり。すでに十二時中なり、不依倚なるべし。莫便是長老処麼といふは、これを見処とはいふまじやといふがごとし。長老見処麼と道取すとも、自己なるべしと回頭すべからず。自己に的当なりとも黄檗にあらず、黄檗かならずしも自己のみにあらず。長老見処は露回回なるがゆへに。」

依倚とはともに「よる」である。露回回とはどこまでも露わである。