粥飯たりて仏性あきらか「そこで黄檗は「不敢え」つまり「いえ、けっして」といった。このことばは、宋土において、おのが能について問われたとき、できることをできるという場合でも「不敢」というのである。だから「敢えてせず」ということばは、かならずしもあえてしないのではない。そのことばのままとはかぎらないのである。長老の所見は、たとい長老であっても、たとい黄檗であっても、それをいうには「不敢」であろう。一頭の水牛が出て来て「もう、もう」というの類いである。そういうのが物のいいかたというものである。その物いう意味は、ひとつみずから試みていうてみるがよろしい。そこでまた南泉がいった。「醤水銭はしばらくおく。艸鞋銭は什麼人をして返さしめん」と。そのいう意味は、粥飯の代金はしばらく億措くとして草草鞋の代はいったい誰に返させたらよいのだという。そのいい方の心は、久しい年月をかけて究明してみるがよい。また、草鞋銭はどうしていま関わるのか。行脚の幾年月、どれほどの草鞋を踏み破ってきたのだというである。そこでは、こういってもよい。「もし銭が返されねば、素足でまいりましょう」と。あるいは「草履は二三足踏み破ってござる」と、そういうところであり、そういう意味なのである。だか、そこで黄檗は休した。沈黙したりである。だが、それは納得されずして黙ったのでもなく、また納得できずして沈黙したのでもない。本物の僧はそうではない。沈黙のなかに言葉があるのであって、なお笑いのうちに力があるのとおなじである。そこでは、粥足りて飯足りて、すでに仏性あきらかなのである。」

原文「黄檗いはく、不敢。この言、宋土におのれにある能を問取せらるるには、能を能といはんとても不敢といふなり。しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。この道取はこの道取なること、はんるべきにあらず。長老見処たとひ長老なりとも、長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには不敢なるべし。一頭水牯牛、出来道牯玷なるべし。かくのごとく道取するは道取なり。道取する宗旨、さらにまた道取なる道取、こころみに道取してみるべし。南泉いはく、醤水銭且致、草履銭教什麼人還。いはゆる、こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめんとなり。この道取の意旨、ひさしく生生をつくし参究すべし。醤水銭いかなればかしばらく不管なる。留心勤学すべし。草履銭なにとしてか管得する。行脚の年月に、いくはくかの草履をか踏破しきたれるとなり。いまいふべし、若不還銭、未著還銭、未著ぞうり。またいふべし、両三両。この道得なるべし。此の宗旨なるべし。黄檗便休。是は休するなり。不肯せられて休し、不肯似て休するにあらず。本色衲子しかあらず。しるべし、休裏有道は笑裏有力のごとくなり。これ仏性明見の粥足飯足なり。」