「狗子に仏性はあるか」趙州真際大師にひとりの僧が問うた。「狗子もまた仏性があるでしょうか」その問いいの心をまず明らかにしなければならない。狗子とは犬である。その犬に仏性があるかと問うのでもなく、ないかと問うのでもない。大丈夫たるものもまた学道すべきやと問うたのである。あやまってすごい老師に遇うた。その恨みはふかいけれども、三十年このかた、やっと半個の聖人たることをえたという故事もある。その風流をまなぶのである。趙州はいった。「無」そのことばがあって、はじめて学べき方途がみえたのである。仏性そのものからいっても無である。狗子の方からいっても無である。あるいは第三者がそばから見てもやはりおなじく無である。その無にいたって、はじめて石を融かす時がくるのである。そこでかの僧はいった。「一切の衆生はみな仏性ありという。なんとかして狗子にはないのありましょうか」そのいう意味は、もし一切衆生が無であるならば、仏性も無であろう。狗子もまた無であろうという。その意味はいったいどういうことかと問うのである。狗子の仏性のことなど、あらためて無といわなくも解っているのではないかとするのである。そこで趙州がいった。「人間には業識があるからな」その言葉の意味は、人間がもっているのは業識であるということ。業識があるから人間には有りというが、狗子にはそれが無いから仏性無しという。業識ではなお狗子を理解しえないから、どうしても狗子には仏性ありといえないのである。たとい有るといおうとも無いといおうと、どっちにしても、ここは業識の問題である。」
原文「趙州真際大師に、ある僧とふ、「狗子還有仏性也無」この問の意趣あきらむべし。狗子とはいぬなり。かれに仏性あるー゛しと問取せず。なかるべしと問取するにあらず。これは鉄漢また学道するかと問取するなり。あやまりて毒手にあふ、うらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半個の聖人をみる風流なり。趙州いはく、「無」此の道をききて、習学すべき方路あり。仏性の自称する無も恁麼道なるべし。狗子の自称する無も恁麼道なるべし、傍観者の喚作の無も恁麼道なるべし。その無わづかに硝石の日あるべし。僧いはく「一切衆生皆有仏性、狗子為甚麼無」いはゆる宗旨は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生となり。狗子仏性。、なにとして無をまつことあらん。趙州いはく、「為他有業識在」此の道旨は、為他有は業識なり、業識有、為他有なりとも、狗子無、仏性無なり。業識いまだ狗子を会せず、狗子いかでか仏性にあはん。たとひ雙放雙収すとも、なほこれ業識の始終なり。」
業識とは善悪の業によってまねいた果報という意。