「趙州がいっった。「それらは彼らが知っていて、ことさらに犯すがためである。」この語句は、世俗のことぱとして、ながく巷間に流布しているが、ここでは趙州のことばである。そのこころは、知りながらもことさらに犯すということであるが、いまこのことばに疑いを抱かぬものはすくないであろう。ことに「入り来たる」という入るの一字が判りにくいが、その入るの一字もかならずしも適切ではない。いわんや、「庵中不死の人を識らんと欲せば豈ただ今のこの皮袋を離れんや」である。その不死の人が誰であろうと、いずれの時にか皮袋を離れないもがあろうか。とすると、「ことさらに犯す」というのは必ずしも「皮袋に入る」ことではなく、「皮袋に入る」とはかならずしも「知りてことさらに犯す」ことでもない。」そこはどうしても「知りて」のゆえに、「ことさらに犯す」のでなくてはならない。」(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「趙州いはく、「為他知而故犯」この語は、世俗の言語として、ひさしく途中に流布せりといへども、いまは趙州の道取なり。いふところは、しりてことさらおかすとなり。此の道取は疑著せざらん。すくなかるべし。いま一字の入あきらめがたしといへども、入之一字も不用得なり。いはんや欲識庵中不死人、豈離只今這皮袋なり。不死人はたとひ阿誰なりとも、いつれのときか皮袋に莫離なる。故犯はかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋かならずしも知而故犯にあらず、知而のゆゑ這に故犯あるべきなり。」