「知るべし。この「ことさらに犯す」とは、つまり、なにかけ縛を脱する課程が包み蔵されているのである。それをまた突然「入ってくる」などと説くのである。その脱する課程は、その時には、自分にも判らないし、人にも判らない。では、まだまだ完全には脱け切っていないのだといってはいけない。それは驢がさきに馬があとかと論ずる輩のいうこと。ましてや雲居高祖もいっておるではないか、「仏法のかたほとりの事を学んでくると、たちまちあれこれを詰らぬことが気になってくるものだ」と。まさにその通りであって、いささか仏法の周辺をまなぶと、その過ちかが日とともに深く、月とともに深まってくる。狗子の仏法の有無などということが気になってくるのもそれである。だが、知りて犯すのも仏性があからである。」(道元:正法眼蔵・仏法)

原文「しるべし、この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん。これ撞入と説著するなり。脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。いはんや雲居高祖いはく、たとひ仏法辺事を学得する、はやくこれ錯用心了也。しかあれば、半枚学仏法辺事、ひさしくあやまりきたること日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有仏性なるべし。」