「妄想することなかれ」「長沙景岑和尚の門下に笠尚書(じくしようしょ)という者があって、ある時、和尚に問うていった。「蚯蚓がきれて二つになり、両頭がともに動いている。その時fはいったい、仏性はいずれの頭にあるでしようか」和尚はいった。「妄想することなかれ」尚書はいった。「どうして動いているのでしょうか」和尚はいった。「それはただ風大・火大がまだ散じないからだ」いま尚書は、蚯蚓が切れて二つになるというが、まだ切れない時は一つだときまっているか。仏教のつねの考え方はそうではない。蚯蚓はもともと一つでもなく、切れて二つになるわけでもない。一つだ二つだといういい方こそ、よくよく思いめぐらしてみなければならない。いま両頭ともに動くというが、では切れないまえを一頭とするのか。それとも仏法ををゆびさして一頭というのか。両頭ということばは、たとい尚書が判っていようがいまいが、この話はすてないがよろしい。切れた二つが一頭であって、そらにもう一頭あるのか。その動くについても「ともに動く」というが、「定はうごかし、智はぬく」であるから、なるほどともに動くはずである。また「いったい仏性はいずれの頭にあるか」という。そこはむしろ「仏法がきれて二つになったが、一体蚯蚓はいずれの頭にあるか」ということであろう。そこのいい方は正確にしなければならない。両頭がともに動いているが、仏性はいずれの頭にあるかというのは、ともに動いていては仏性がありえないというのか。あるいは、ともに動いているのだから、動はいずれも動であるけれども、仏性の処在はそのいずれかというのであるか。 和尚は「妄想することなかれ」といった。その意味はどうであろうか。つまらぬことを考えるなということである。では、両頭がともに動いているのを妄想にあらずというのか。あるいは、ただ仏性には妄想がないというのか。それとも、仏性を論ずるでもなく、両頭を論ずるのでもなく妄想するなかれというのかとも考えてみるがよい。すると尚書はなお、「それでも動いております」という。それは、動けば仏性がもう一つふえるというのか、それとも動けば仏性ではあるのまいというのか」(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「長沙景岑和尚の会に、竺尚書といふ、「蚯蚓斬為両段、両頭倶動、未審、仏性在阿那箇頭」師云「莫妄想」書云「争奈動何」師云「只是風火未散」いま尚書いはく之蚯蚓斬為両段は、未斬時は一段なりと決定するか。仏祖の家常に不恁麼なり。蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず。一両の道取、まさに功夫参学すべし。両頭倶動という。両頭は未斬りさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。両頭の語、たとひ尚書の会不会にかかはるべからず。語話をすつることなかれ。きれたる両段は一頭にして、さらに一頭にあるか。その動といふに、倶動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり。未審、仏性在阿那箇頭。仏性斬為両段、未審麼、蚯蚓在阿那箇頭といふべし。この道取は審細にすべし。両頭倶動、仏性在阿那箇頭といふは、倶動ならば、仏性の所在に不堪なりといふか。倶動なれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在は、そのなかにいづれなるべきぞといふか。師いはく、莫妄想。この宗旨は作麼生なるべきぞ。妄想することなかれといふなり。しかあれば、両頭倶動するに妄想なし。妄想にあらずといふか。ただ仏性は妄想なしといふか。仏性の論におよばす、両頭の論におよばず、ただ妄想なして道取するかとも参究すべし。動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと動取するか、動ずれば仏性にあらざらんと動著するか。」