「風・火いまだ散ぜず」すると和尚は、「風・火いまだ散ぜず」といった。そこで仏性を持ち出したのであろう。だが、それは仏性といってよいだろうか。仏性と風火がともに出てくるものともいえないし、一法が出て他方が出ないともいえない。あるいはまた、風火がそのまま仏性ともいえない。だから長沙は、蚯蚓に仏性がありともいわず、仏性なしともいわず、ただ妄想することなかれといい、風火いまだ散ぜすといった。 仏性の消息はこの長沙のことばによって忖度するがよく、風火いまだ散ぜずという言葉をしずかに思いめぐらしてみるがよい。いまだ散ぜずとはいかなることであるか。風火のあつまっていたのが、まだ散ずるときが来ないというのか。そんな筈はありえない。風火いまだ散ぜずとは、仏が法を説くのであり、いまだ散ぜぬ風火とは、法が仏を説くのである。言葉をかえていえば、一音(いっとん)の法を説く時機が到来したのであり、法を説く一音が到来する時機である。法は一音である。一音の法だからである。(道元:正法眼蔵・仏性)
原文「風火未散といふは、仏性を出現せしむるなるべし。仏性なりとやせん。風火なりとやせん。仏性と風火と倶出すといふべからず。一出一不出といふべからず。ゆゑに長沙は、蚯蚓に有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず、ただ莫妄想と道取す、風火未散と道取す。 仏性の活計は、長沙の道を卜度すべし。風火未散とふ言語、しずかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理あるかある。風火のあつまりけるが、散ずべき期いまだしきりと道取するに未散といふか。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。たとへば、一音の法をとく時節到来なり。説法の一音なる。到来の時節なり。法は一音なり。一音の法なるゆへに。」
一音とは、如来の説法は一音であるが、聞く者がこれをさまざまに受けとるという。