「生・死の時にも有仏性・無仏性」「仏性は生きているときのみのことで、死んだ時には無いと思うのは、とんだ゛不勉強のあさはかな考えである。生の時にも有仏性であり無仏性である。死の時にも有仏性であり無仏性である。風火の散る散らぬをもっていうなれば、そのいずれのときにもまた然るのである。たとえ風火の散るときにも、仏性は有であり、また無である。またいまだ散らないときにも、有仏性でありまた無仏性である。それなのに、その仏性を、動と不動とによって在りもしくは在らずとなし、また識と不識とによってその霊妙なはたらきをありとしあらずとする。あるいは、知るかしらざるかによって、仏性の具すると具せざるを分かたんとする者もあるが、そのような考え方は全て誤った外道の考え方である。ふるい昔から、おろかな者たちはたいてい、意識の不思議なはたらきをもって仏性となし、それが本来の人間だとしているが、まことに笑止千万のことである。 もはや仏性を語るにこれ以上ことばを重ねるべきではないが、ずばりというならば、それは牆壁瓦礫である。では、それを仏の境地に向かっていうならば、そも仏性はいかに、それはもう、すべて三面八臂の仏におまかせしょう。」(道元:正法眼蔵・仏性)

原文「また、仏性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ。もとも少聞薄解(しょうもくはくげ)なり。生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、無仏性なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし。無仏性なるべし。しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神(じんふじん)なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは外道なり。無始劫来は痴人おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人(しょうさつじん)なり。 さらに仏法を道取するに、拕泥滞水(だでいたいすい)なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。還委悉麼三頭八臂。」

拕泥滞水:しつこくこだわるの意にもちいる。三頭八臂:仏の姿ょいうことば。