「迷いと悟り」自己をおしてよろずのことどもを計らうのは迷いである。よろずのこと来たって自己を証しするのが悟りである。迷いを転じて大悟するのが諸仏であり、悟りに執して迷いに迷うのが衆生である。さらにいえば、悟りのううえに悟りをかさねる者があり、迷いのなかにあってまた迷う者もある。諸仏がまさしく諸仏とんるときは、かならずしもじこは仏であると自覚する必要はない。それでも仏を証するのである。仏とはそれかと悟りつつゆくのである。身心を傾けて物を見る。あるいは身心をそばだてて声を聞く。それが自分ではよく解るのであるが、鏡に物を写すようにはまいらぬ。水にうつる月のようにはゆかない。一方がわかれば他方がわからないのである。」(現成公案)
原文「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証する はさとりなり。迷いを大悟するは諸仏なり、悟に大迷するは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり,迷中又迷の漢 諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月のごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。」
色:「形あるもの」眼識によってそれと認識することのできる物的存在をいうことばである。又其れは変化するのであるからこれは現象が
適当の意である。
修証:修はおさめる、証はさとるである。修行と証悟である。修行と悟りは一如である。