「悟りは水にやどる月のごとし」「人が悟りをうるのは、水に月の映るようなものである。月もぬれない、水もわれない。月は広大な光りであるが、盆ほどの水にやどり、月天のことごとくが、草の露にもやどり、一滴の水にもやどる。悟りが人をそこなうことなきさまも、月が水を穿(うが)たざるにおなじである。人が悟りをこばむことなきさまは、一滴の露が月天をこばまぬにひとしい。深きは高きの尺度であろう。だが、年月の長短などのことは、水の大小により、映る月天の広狭はないことを考えてみるがよかろう。(道元:正法眼蔵・現成公案)

原文「人がさとりをうる、みず天にやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれども、尺寸の水にやどり、全月も弥天(みてん)も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざること,月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罜礙(けいげ)せざること、滴露の天月を罜礙せざるがごとし。ふかはことはたかき分量なるべし。時節の長短は,大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし。}

弥天:弥はあまねし。全天というほどの意か。罜礙:罜はひっかかる。礙はさまたげる。障碍をなすという意。時節の長短:修行の年月を云々する輩を却げる・