「悟りの境地」「いまだ身心に法の行き渡らぬ時には、すでに法は満と思う。もし身心に法が満ちた時には、どこかまだ足りないように思われる。たとえば、船にのって、陸の見えない海に出でて四方を眺めると、ただ円いばかりで、どこにも違った景色は見えない。だが、大海は円いわけでもなく、四角いわけでもない。それ以上の海のさまは見えないむでけである。海の徳は宮殿のごとく、瓔珞のごとしという。ただ、わが視界のおよぶところが、一応円く見えるのみである。」(道元:正法眼蔵・現成公案)
原文「身心にいまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すればひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば船ににのりて、山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、そらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず。方になるにあらず。のこれる海徳、つくすべからざるなり。宮殿のごとし。瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。」
参飽:腹一杯になるというところである。海徳:海のさま海のありよう。瓔珞:珠玉・金銀などを編んで作った装身の具である。