魚と水・鳥と空にたとえて「それなのに水を究めて水を行かんする魚があり、空をきわめてのち空を行かんとする鳥があらば、彼らには水にも空にもその道をえず、その処をうることはできまい。その処をうれば、その行くところにしたがってさとりは実現し、その道をうれば、その履むところおのずからにさとりを顕現する。その道、その処は、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、前よりあるにあらず、いま新たに現ずるにもあらず、おのずらにしてかくのごとくなるのである。それとおなじく、人の仏道をおさめんとするにも、一法をうれば一法に通ずるのであり、一行にあえば一行を修するのである。そこにもまた処があり、道が通じているのであるが、それがはっきりとは判らない。それは、それは仏法を究めるとともに生じ、ともに関わるからである。」(道元:正法眼蔵・現成公案)

原文「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、みずそらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水ずにもそらにも、みちをうべからず、ところをうべかにず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、しま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し同参するゆゑにしかあるなり。」