「悟りの実現は理論ではなく実践の問題」「麻谷山(まよくざん)の宝徹(ほうてつ)禅師が扇をつかっていた。そこに一人の僧が来たって問うた。「風性(ふうしょう)は常住にして、処として周ねからぬはないという。それなのに、和尚はなぜまた扇をつかうのであるか」師はいった。「なんじは風性は常住であるということを知っているが、まだ、処として周ねからぬはないという道理はわかっていないらしい」僧はいった。「では、処として周ねからぬはないというのは、どういうことでありましょうか」その時、師はただ扇をつかうのみであった。それを見て、僧は礼拝した。仏法のあかし、正伝の自由自在なることは、かくのごとくである。つねにあるから扇をつかうべきではない、扇をもちいぬ時にも風はあるのだというのは、常住ということも知らず、風性というものも解っていないのである。風性は常住であるからこそ、仏教の風は、大地の黄金なることをも顕現し、長河の水を乳酪たらしめる妙用をも実現することをうるのである。」正法眼蔵 現成公案 

原文「麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、「風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あほぎをつかふ」師いはく「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたずらにいふことなき道理をしらず」と。僧いはく、「いかならんかこれ無処不周底の道理」ときに師、あふぎをつかふのみなり。僧礼拝す。仏法の証験、正伝の活路、かくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は大地の黄金なる現成せしめ、長河の蘇酪参熟せり。」