「一顆の珠とは、一物の名を言うのではなく一の表現である」「一顆の珠とは、一物の名を言うのではなく、一の表現である。だが、それを一の名と思うものもあろう。けだし、一顆の珠は、まさに永遠というべきもので、初めなき古より今日に到るのである。ここにこの身があり、ここにこの心がある。それが明珠である。それは、あれやこれやの草木でもなく、この天地の山や河でもない。だ明珠である。汝らはそれをどう理解するかである。このいい方は、いささか僧が虚妄を弄するに似ているけれども、そこにおおいなるはたらきが現れ、そこに大いなる法則が存する。一尺の水には一尺の波がたつことをこころみてみるがよい。それがいうところの一丈の珠には一丈の光明があるということである。いまいうところの道理を表現するに、玄沙のことばは、「尽十方世界はこれ一顆の明珠である。それを理解してどうしようというのだ」とあった。その表現を、仏は仏に嗣ぎ、祖は祖に嗣ぐ。また玄沙は玄沙に嗣するわけである。それを嗣ぐまいとすれば、廻避する道もないではあるまいが、しばらくは廻避しえても、やがてはこの表現が生まれてくるのである。(道元:正法眼蔵・一顆明珠)

原文「是一顆明珠は、いまだ名にあらざれども道取なり。これを名に認じきたることあり。一顆珠は直須万年(じきしゅまんねん)なり、亙古未了(こうこみりょう)なる亙今到来なり。身今(しんこん)あり、心今(しんこん)ありといへども、明珠なり。彼此(ひし)の草木にあらず、乾坤の山河にあらず、明珠なり。学人如何会得。この道取は、たとひ僧の弄業識(ろうごっしき)に相似せりとも、大用現前是大軌則(だいようげんぜんぜだいきそく)なり。すすみて一尺水一尺波を突兀ならしむべし。いはゆる一丈珠一丈明なり。いはゆるの道得を道取するに、玄沙の道は、尽十方世界、是一顆明珠は、用会作麼(ようえさむ)なり。この道取は,仏は仏に嗣し、祖は祖に嗣し、玄沙は玄沙に嗣する道得なり。嗣せざらんと廻避せんに、廻避のところなかるべきにあらざれども、しばらく灼然廻避するも、道取生あるは現前の蓋時節(がいじせつ)なり。」

業識:人乃心が根本無明の力によって動きはじめる段階をいうことば。大用現前是大軌則:自由自在のはたらきは、法則鳴きに似ているけれども、むしろ大いなる法則というべきものであるとするのである。