「一顆の珠とは、一物の名を言うのではなく一の表現である」玄沙はその翌日、かの僧に問うていった。「尽十方世界はこれ一顆の明珠である。。汝はこれをどう理解するか」。それも一つのいい方である。昨日は断定的に説いたが、今日はことばを翻して問いの形をもって語る。昨日のいい方を逆転して、点頭(うなず)てい笑うのである。僧はいった。「尽十方世界はこれ一顆の明珠である。これを理解してどうしようというのだ」。それは賊の馬に乗って賊を逐うというものである。古仏が人のために説くには、いろいろの種類の人々のなかに赴かねばならない。時にあたっては光りをめくらして返り照らしてみなければなるまい。「理解してどうしようというのだ」などと、そのいい方にもいろいろとあろう。砂糖餅七枚ということもあろうし、草餅五枚ということもあろうが、湘水の南でも江譚の北でも、ひとしく行いて教えなければならない。」(道元:正法眼蔵・一顆明珠)
原文「玄沙、来日問其、「尽十方世界、是一顆明珠、用会作麼生会」これを道取す。昨日説定法なる、今日二枚をかりて出気す。今日説不定なり、推倒昨日点頭なり。僧日、「尽十方世界、是顆明珠、用会作麼」いふべし騎賊うま逐賊なり。古仏為汝説するには、異類中行なり。しばらく回向返照すべし。幾箇枚(きこまい)の用会作麼(ようえさも)かある試道するには、乳餅(にゆうひん)七枚、菜餅(さいひん)五枚なりといへども、湘之南譚之北の教行なり。」
回向返照:光りをめぐらして反対の角度から照らす。