「いかなるが明珠であるかいなかを思い煩うことはない」「すでにかくの如くであるのに、なお、われは明珠ではあるまいと思い迷うのは、けっして珠ではないからではない。思い迷い、迷いをいだき、取捨にとまどうのも、ただしばらくの小さい計らいというものである。それは心せまきに似ているけれども、また愛すべきはものである。明珠とは、そのように光彩きわまりないものである。その彩と光りの一片一片がすべて尽十方世界の功徳であって、何人もこれを奪うことはできない。市場で瓦石を投ずる人はない。六道の因果に落ちるか落ちないかと思い煩う必要は無い。因果はもともと徹頭徹尾あきらかである。それが明珠の面目であり、それが明珠の眼晴である。(道元:正法眼蔵・一顆明珠)
原文「既得恁麼なるには、われは明珠にあらじとたどらるるは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり。たどりうたがひ取捨する作無作も、ただしばらく小量の見なり。そらに小量に相似ならしむるのみなり。愛せざらんや,明珠かくのごとくの採光きはまりなきなり。彩彩光光の片片条条は尽十方世界の功徳なり、誰かこれを攙奪(ざんだつ)せん。行市(こうし)に搏(かわら)をなぐる人あらず、六道の因果に不落有落(ふらくうらく)をわづらふことなかれ。不昧本来の頭正尾正(ずしんびしん)なる、明珠は面目なり、明珠は眼晴なり。」
不落有落:因果に落ちるかおちないかの意。不昧:あきらかなりの意。頭正尾正:徹頭徹尾に正しいという意。