「死は死の法位に住して前後際断せり、生は生の法位にして前後際断せり。」(正法眼蔵・現成公案)
前後関係、因果関係、時間の経過といった分別による認識を全部捨て去ったところ、すなわちある絶対的なところに生が生として完結しており、死が死として完結しているというのです。つまり「今、ここに」という時だけがある。そこには人も、自然も、遠くも、近くも、過去、現在、未来、といったつがりがなく持続も因果関係もないというのです。つまり永遠の中にある「今」というようなものなのです。
「死は死の法位に住して前後際断せり、生は生の法位にして前後際断せり。」(正法眼蔵・現成公案)
前後関係、因果関係、時間の経過といった分別による認識を全部捨て去ったところ、すなわちある絶対的なところに生が生として完結しており、死が死として完結しているというのです。つまり「今、ここに」という時だけがある。そこには人も、自然も、遠くも、近くも、過去、現在、未来、といったつがりがなく持続も因果関係もないというのです。つまり永遠の中にある「今」というようなものなのです。